瀬音ホームページの山里の記憶コーナーに「おこあげ」をアップした。中学生くらいまで家では養蚕をやっていた。秩父の農家はほとんどが養蚕をやっていたと思う。山にはたくさんの桑畑があり、朝飯前に桑の枝を切って運ぶのが子どもの仕事だった。学校に行く前に一仕事していたわけだ。
養蚕の中で一番忙しいのが「おこあげ」と呼ばれる作業だった。正式には上蔟と書き、成熟した蚕を蚕カゴからマブシ(蔟)に移す作業だ。おこあげの日、子供は学校を休んで仕事を手伝うのがどの家でも当たり前だった。
忙しい1日だったから必死で働いたのだが、何より学校を休めることが特別な1日だった。当時、学校の休みはおこあげの日と八幡様のお祭りの日だけだった。学校で前日に先生に「先生、明日おこあげなんで休みます」と言えば「おお、そうか、頑張ってな」と言って休ませてくれた。
家の一番大切な仕事なので真剣にやるのは当たり前だったが、何より学校を休めるのが嬉しくて、ルンルン気分で家に帰ったことを覚えている。
回転マブシを組み立てて二階の壁に立てかけて並べる。ボール紙製のマブシは折りたたみ式になっていて広げると四角になる。これを10段木枠にセットするのだが、子供は二人掛かりでやる大仕事だった。木枠が壊れていたり、ボール紙のマブシが破れていたりすると修理しながら組み立てた。
おこあげの日は朝からとても忙しかった。子供の仕事も多かったので休む暇などなかった。助っ人の人もいていつもと違う1日だった。
春蚕(はるご)、夏蚕(なつご)、秋蚕(あきご)と年に三回の養蚕だった。桑畑もそう多くはなかったしこれが最大限だったと思う。桑の葉が出ている時期はずっと養蚕で明け暮れていた。
現金収入の道がこれしかなかったから、どの家も同じように養蚕に励んでいた。中学生になった頃から世間の様子が変わってきた。ナイロンやテトロンなどの化学繊維が市場を席巻し、絹糸の需要は激減した。農家の様子もガラリと代わり、高度経済成長の波は田舎の農家も直撃した。土木工事や道路工事で働く人が増え、桑畑はソバ畑に変わった。
古き良き時代だったのかもしれない。養蚕で働いたことは子供時代の記憶に鮮やかに残っている。