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Channel: kurooの窓
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会津鶴ヶ城と桜

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 12日と13日、会津に行った。鶴ヶ城の桜と飯盛山や武家屋敷を見て回った。ちょうど満開の桜が散り始める時で、最高の桜を堪能することができた。お城と桜はよく似合う。
 青空の下、満開の桜と風に流れる花びらの中を歩く爽快さ。お堀の水には花筏が浮かび、土手の桜を映している。素晴らしい石垣と桜のコントラストも美しい。
 人が思ったより少なく、ベンチも空いていてどこでも腰を下ろして休めた。どこのベンチからも桜とお城が見渡せる。素晴らしい空間だった。天守閣から満開の桜を見下ろすのも初めての経験だった。まるで桜の海に浮かんでいるような気分になる。
 

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 天守閣は五層で、様々な展示物がある。その歴史は悲劇の歴史で、戊辰戦争以降の展示に思わず足が止まる。ここに来た目的の一つが会津戦争の内容を現地で知るためだった。
 会津の歴史は悲しい。松平容保が京都守護職に任ぜられて以来、歴史の大波に翻弄され続けた。戊辰戦争から明治維新へと大きく流れが変わる中で、忠義に殉じた武士たちの生き様は様々な形で語り継がれている。白虎隊隊士の絵が並んでいる。その前に立ち尽くし年齢の数字を目で追い、自分だったらどうであったかと自問する。桜も青空も消えて、自分と向き合う時間が過ぎてゆく。
 

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 なぜ会津は最後まで抵抗したのか。他の道は無かったのか。書物で読んだ内容を思い返しながら鶴ヶ城の展示物を見る。会津戦争の解説で全て西軍と書いてあるのが印象的だった。新政府軍でも官軍でもなく西軍とだけ書かれている。会津の人にしてみればあれは単なる西軍なのだ。勝てば官軍とはここから来た訳だからと納得した。
 街のあちこちに「会津っ子宣言」の標語が掲げられている。その最後の一言が会津を表しているのではないかと思った。「ならぬものはなりません」・・・この一言があればこそ会津であり、この一言に殉じた人々だったのではないか。今の時代、この言葉を発して殉じる人がどれだけいるだろうか。日本人の心の中に美しいものがあるとすれば、会津の人々の心情はその一つであり、それゆえに会津への思いが続くのだと思う。
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 東山温泉で一泊し、翌日は武家屋敷と飯盛山を回った。対岸の山に山桜が咲く渓流沿いの宿は訪れる人も少ないのか静かで広い温泉を満喫できた。
 翌朝、近くの武家屋敷に立ち寄る。最後の家老・西郷頼母の屋敷を再現したもので、数々のテレビドラマの撮影なども行われたらしい。綾瀬はるか主演の「八重の桜」もここで撮影された。屋敷の中を散策するが、それぞれの部屋に置いてある道具類に目を奪われる。武具などより収納用品や台所用品の写真を撮りまくった。
 

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 お昼を食べて休憩し、飯盛山へ向かう。山の上まで動く歩道が設置されていて、それを使う。二人で500円なり。山の上に続く長く高い階段を見上げると流石にそこを登ろうとは言えない。
 飯盛山は全体が墓所になっていて、白虎隊自刃の場も墓所の一箇所に小さく祀られていた。山頂には広場と隊士の墓があり、神聖な空気に満ちていた。ここでも隊士一人一人の年齢に目が行く。中には14歳と刻まれたものもあり、戦死の文字に頭が下がった。日本人同士の争いだったのだと今更ながら人間の残酷さを認識した。飯盛山は墓所なので写真は撮らなかった。
 

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 最後に石部桜を見に行った。公園の駐車場から歩いて10分。畑の真ん中に巨大な桜が自生し満開の花を咲かせていた。解説文によると江戸時代から有名な桜で、飯盛山のさざえ堂と石部桜を結ぶ道があり、観光名所だったと絵図に描かれていた。
 畑の真ん中にこんな巨大な桜がある。不思議な感覚だったが見上げているうちに雨が降り出し、見学もそこそこに慌てて帰る始末だった。カミさんは傘を持っていたので無事だったが、私は傘を持たずに行ったのでびしょ濡れになってしまった。最後が春の雨だったのも印象的な会津の桜旅だった。

 

 

 

 


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