ホームページの山里の記憶コーナーに「うどんぶち」をアップした。中学生になると大人扱いされたので、農繁期などは毎晩のように家族が食べるうどんを打たされた。うどんぶちの最初はまだ非力で柔らかいうどんしか出来ず、怒られたものだが、徐々にまともなうどんが打てるようになった。
と言ってもこねるまでで、そのあとは手動製麺機を使って麺を作っていた。当時、どの家にもこの手動製麺機があり、どこでも毎晩のようにうどんを食べていた。
こねた生地をテニスボールくらの大きさに丸め、製麺機の上から入れてハンドルを回す。生地がローラーで平らになって下から出てくる。最初は縁もギザギザだが、三・四度ほど折って畳んで伸すを繰り返すとコシのある滑らかな生地になる。ここまでは丁寧にやる。
ハンドルの位置をずらし、手前の麺切りローラーにギヤを切り替えて平らな生地を入れる。ハンドルを回すと生地が切られて麺になって下りてくる。これをすぐに沸き立った釜に入れる。これが忙しかった。機械と釜を往復し、なるべく早く全部の生地を麺にしなければならない。モタモタしていると茹で上がりがずれて変なうどんになってしまう。上がりはなに斜めに腰掛け、切って運ぶを繰り返す。子供ながら必死の作業だった。
生麺をそのまま鍋に入れて具材と煮込むのが「おっ切り込み」だが、我が家ではほとんどやっていなかった。茹でたうどんを丸く一口大にまとめボッチを作ってショウギと呼ぶ大きなザルに並べて水切りをした。こうしておくといつでも食べられるからだ。汁が温かければ汁にボッチを入れれば美味しいうどんになる。家族が大人数だったので、全員が同じ時間に食べる訳ではなかった。ボッチのうどんさえ作っておけばみんな好きな時に食べられた。
秩父では多くの家が養蚕をやっていた。養蚕をやるような場所は田んぼがなく畑も山にあるところが多かった。山の畑では養蚕の裏作で大麦・小麦を作って大切な主食にしていた。十月に種まきをして真冬の麦踏みが子供の仕事だった。七月の麦刈りは家の大事な作業で学校を休むこともあった。脱穀は全員総出で汗まみれになってやったものだ。
自分で作った小麦を粉にして自分でうどんを打って食べる。今考えると、本当に贅沢な食生活だったのだなあと感じるが、その時は、何でも買える家庭が羨ましくて仕方なかった。ただただ貧乏だからこんな大変な事をしなければならないのだと世間を恨んでいた子供時代だった。