10月24日、池袋の映画館に映画を見に行った。見た映画は「空の青さを知る人よ」というアニメ映画だった。秩父を舞台にしたアニメ映画三部作の三作目の作品だ。秩父が舞台ということもあり、話の種になるかと思い何となく見に行った。若い人向けの映画だし、とりあえず見ておこうという軽い気持ちで足を運んだ。
ところがこの映画、66歳のジジイの胸に強烈に突き刺さった。一体突き刺さったものが何だったのかと一晩考えた。映画の紹介になるのかもしれないが、とにかく考えさせられた。考えた結果以下のように考えがまとまった。長文です。
映画はあかねとあおい二人の姉妹が暮らす秩父市が舞台。知っている場所が映画に次々登場し、秩父観光案内ビデオのような感じで始まった。高校を出てミュージシャンを目指し東京へ出る少年と見送る姉のあかね。ネタバレにならないようストーリーはその辺で終わらすがこの映画で何が突き刺さったのかを考える。
キーワードはことわざ。「井の中の蛙大海を知らず・・されど空の青さを知る」という言葉。これが映画のタイトルにもなっている。空の青さを知る人という言葉が刺さったのだ。高校まで秩父で過ごし、まさに「井の中の蛙大海を知らず」になるのが嫌で東京に飛び出した。蛙(かわず)はまるで自分の事だった。
自分にとって東京に出るということは当たり前の決断だった。しかし多くの友人たちは秩父にとどまった。東京で一心不乱に働き、それなりの仕事や地位も得て、家を建てることも出来た。成功したはずなのに、何か物足りない。そんな気持ちが後押ししたのか13年前から秩父に通って「山里の記憶」という絵を描くライフワークを続けている。自分なりに、消えゆくものを残すとか子供時代の懐かしい味や技を求めてと理由づけているが、本当にそうなのかは疑問が残る。何か違う根本的なものが自分の気持ちの奥にあるような気がしていた。
東京に家を建て、終の住処を築いたはずだった。しかし、そこは山が見えない都会のただ中だ。まるで大海に漂う笹舟のような気すらする。周囲とのコミュニケーションはなく、水に漂う根無し草のようでもある。
若い時は周りを気にすることのない都会が良かった。誰にも干渉されずに自由に生きてきた。その結果手に入れた自分だけの世界だったはずだった。大海に飛び出して成長した人間になったはずだった。東京に出て約50年、それなりに頑張った。しかし何か物足りない。
秩父に通い、多くの人を取材して多くのことを勉強した。皆秩父で生まれ、秩父で生きてきた人たちだ。まさに「空の青さを知る人」たちだった。
母親は秩父から一度も出たことがなかった。温泉にでもと旅行に誘っても頑として秩父から出なかった。テレビの旅行番組が好きで「外のことはテレビを見ればわかるから・・」と笑っていた。秩父から出ることを母親は「外に出る」と言っていた。実家を継いだ兄は一度浦和に出て秩父に戻った。高校時代の友人はずっと小鹿野で割烹料理店をやっている。
何かを守るために秩父にいる人がいる。子供を守るため、親を守るため、実家のお墓を守るため、年に一度のお祭りを守るため、先祖伝来の田畑や山を守るため、など様々だ。その全てが「空の青さを知る人」たちなのだ。大きな根っこを持っている。
高校を卒業したばかりの自分にもし今会えたら何を言ってやれるだろうか。お前が考えているほど秩父は狭くないよ。お前が考えているほど東京はいいところではないよ。眩しく見える場所には、眩しければ眩しいほど暗い影の部分があるんだよ。煩わしい人間関係は時間が経てば快適な関係になるんだよ。お金よりも大切なものがあるんだよ。・・そんな事くらいは言える気がする。
若かったから「井の中の蛙大海を知らず」という強迫観念しかなかった。「空の青さを知る」ことの意味がわからなかった。この映画が胸に刺さったのは若かった自分への郷愁だったかもしれない。
空の青さを知ることと井戸から出て大海を知ることのどちらが優先されるかはその人による。自分の人生は自分で選んだ人生だ。人それぞれ様々な人生を生きている。
ともすれば大海を知ることを優先して、井戸の中にいることを遅れていると見ることもあるだろう。しかしそれは違うとこの映画は言っている。故郷を出た人間は誰でも故郷に帰りたいという願望がある。しかし帰れない人間が大多数だ。口にはしないが故郷は遠くにありて思うものと諦めている。郷愁という琴線に響く言葉がそれを表す。
郷愁というものが何かと言えば、それは故郷に帰ることが出来ない人の諦めの感傷だ。帰りたくても帰る場所がない。そんな状況が、そんな思いが郷愁という言葉を紡ぐ。
大海を知るために外に飛び出した人間が、井戸の中で空の青さを知る人間を思う。いや、思うのではなく憧れる。日本中の田舎から都会に出た人に突き刺さる映画だと思う。自分の原点は何だっかのかと問われる映画だ。久しぶりに、いや、初めて心に突き刺さる映画だった。