ホームページの山里の記憶コーナーに「ドラム缶炭焼き」をアップした。
今回取材した黒沢幸男さんは知り合いの紹介だった。最初連絡を取った時は幸男さんが体調を崩して取材が延期になり、その後何度か連絡したが、ちょうど炭を焼いていない時期だったりして延び延びになっていた取材だった。今回はタイミング良く条件が合って、連絡後すぐに取材が出来たのでラッキーだった。
畑の中でドラム缶を使った炭焼きの話を聞いたのだが、周辺に漂う煙の匂いがとても懐かしいものだった。炭を焼く煙は独特の匂いがしてすぐにそれとわかる匂いだ。風向きによっては煙から逃げ回るような事になるのだが、それもまた楽しい。
二時間も座り込んでいたら、煙の匂いが体全体にしみ込んだ。その時にはわからなかったが、車に乗ってしばらくして気づいた。山で焚き火をした時もそうだった。帰るときに気付いて、何となく懐かしくなったりする。煙の残り香は、昔の記憶を思い出すスイッチになる。
煙の匂いが好きだ。炭焼きでも焚き火でもそうだし、燻製の煙も好きだ。何だろうかと考えて思い当たるのは「囲炉裏」の記憶だ。
子供の頃に囲炉裏で火を燃すのが仕事だった。煙まみれになりながら、いかに煙を出さずに燃やせるかを工夫した。枝の組み合わせや種類を変えることで煙を少なくする。煙を出さずに安定した焚き火をするにはどうしたらいいかを考えた。自分の焚き火は自分でやる。そんな焚き火哲学を身につけられたのも囲炉裏があったからだ。
カマドや風呂釜の焚き付けも仕事だった。一発で燃えつく火のつけ方を考えて工夫した。薪の種類も燃え方も覚えたし、焚き付けの素材もいろいろ覚えた。そこにある物で最善の焚き火が出来るようになり、小学校高学年には、いっぱしの焚き火番になっていた。今でも焚き火は最初から最後まで自分でやりたい。
囲炉裏がなくなってずいぶんたくさんの物がなくなった。物だけでなく、囲炉裏の周囲で行われていた料理や細工物や行事がなくなった。囲炉裏は家の中心だった。文化だった。囲炉裏がなくなって山村の文化が消えたように思う。囲炉裏の取材がしたいが、もう囲炉裏はない。
炭焼きの煙の残り香が囲炉裏を思い出させてくれた。懐かしい記憶につながる煙の匂いだった。