ホームページの山里の記憶コーナーに「おいなりさん」をアップした。
この取材は本当に久しぶりの取材だった。2月末から絵を描けなくなり、取材することもできなくなり、このまま絵が描けなくなってしまうような状態だった。突然のことでどうしようもなく、ただ時間が流れるままに漂っていた。
以前、魚の絵を描いていた時にもこんな事があった。何の前触れもなく手が止まり、絵を描く事が出来なくなった。結局、魚の絵は一年間で終わった。その後は全く魚の絵が描けないままだ。
いずれ絵を描けなくなる時期が来ることはわかっていたので「これがそうなのか・・・」と半分諦めにも似た感情が湧いていた。周りからは「まあ、少し休めってことなんじゃないの?」などと慰められていたが、本人はもう終わりかもしれないと感じていた。
それでも急に取材の話が舞い込んで来て、あれよあれよという間に絵が出来上がった。4ヶ月ぶりの作画は順調とは言い難かったが、出来上がりには満足している。おいなりさんの色が素晴らしい色に仕上がった。まだ神様は絵を描いていいよと言ってくれている。ありがたいことだ。
この取材で村田ミキさんの話を聞き、長瀞の町と宝登山神社のつながりの深さを知った。講の話や御眷属の話、お祭りの話などなど。土地と人と寺社のつながりはどこにでもある話だが、秩父では特に濃いような気がする。
裏の畑に一緒に暮らした猫のお墓があり、毎日一個の小石を供えて手を合わせるミキさん。こういう弔い方もあるのだ・・と感動した。お墓にはミキさんが手を合わせた数だけ小石が塚になっている。花木園のような畑の隅にエビネが生えていたり、サルナシの実が大量に成っていたりした。
家例の取材だったのだが、絵にするのはおいなりさんにした。「何かっていうとおいなりさんを作ってたんだぃねぇ・・」というミキさんの言葉から提案したもので、急な話に対応していただきありがたかった。絵はおいなりさんだけだが、家例の話は充実していて文章にするのが難しかった。紙面に限りがあるので、その範囲でまとめなければならず、言葉足らずになってしまった。ミキさんの昔話をあまり書けなかったのも心残りだ。昭和30年代の雰囲気が少しでも伝われば嬉しい。